無自覚的宗教

「私はこれを信じる」と自覚して何かを信じるのではなくて、
無自覚的に「〜〜は自明のものだ」として信じてしまうことがある。
"安全神話"とかもこの類だろう。
周囲の人が皆信じているのであれば、そういうことがあっても仕方ない。
しかし、周囲の人が信じていないことを自分の信念でもって信じ込んでいる
だけなのに、それを真理だとして振りかざす行為ってどうかと思う。
その思い込みには根拠が無いわけだから、宗教と同じだ。
そういう物言いをすることを、宗教と同質なのにもかかわらず宗教としての
自覚が無いという意味で、「無自覚的宗教」と呼ぶことにする。

小説モード

私は、小説などの文学作品を読むのが苦手だ。もっとはっきりいうと、嫌いだ。
私は、実用的な本や学問の本を読むのが好きだ。

普段はそうだ。しかし、"小説モード"という状態になるときがある。
その状態になると、"小説的な文学作品"しか読めなくなる。実用書や学術書
全く読めなくなるのである。

これは、一種の"躁鬱"のようなもので、バランスをとっているのだろうと思う。

"躁鬱"というのは、例が悪かったかもしれないが、"陰陽","昼夜","覚醒と睡眠"
そういう類の対となる状態であろう。

子供の頃からそういう状態を繰り返して生きてきたような気がする。

私の場合は、"小説モード"の方が特殊な状態で、普段は、"実用(or学術)モード"
ということなのだろう。
もうちょっと表現を変えると、「言葉の"表現"より"意味内容"の方が好き」
という傾向を持つということだ。

日常

書くことがないのは、よいことである。
書きたいときは、世の中の理不尽等につき当たったときだからだ。

世の中のいろいろな出来事にいちいち反応して神経をすり減らしたくない。
生きているのがやっとで、そのようなことをしている余裕が無いだけかもしれない。

そういうのも必要。
そういう状態になれば、生きることに集中できる。

隧道

トンネルだ、トンネルだ、楽しいな。

トンネルは、いつか抜けられる。
しかし、このトンネルは、洞穴かもしれない。

明けない夜はないと言うけど、
朝を迎える毎に暗くなっているような気がする。
気のせいか?
気のせいだとしたら、問題だ。
実際には暗くなっていないのにそう感じるのだから、自分自身が危ういということだ。
気のせいでなければ、そういう時代だと受け止めて諦めるしかない。

忌避

忌避というより逃避に近い。しかし、やはり忌避か。
しなければならないことをせずに避けていると、"逃避"というイメージになるが、
しなくてもよいことを嫌って避けるのであれば、"忌避"でよいような気がする。
そのようなニュアンスを込めたくなければ、"回避"という言葉もある。
いずれにせよ"避"には違いない。
いや、もうそういうレベルの話ではない。嵌って抜け出せなくなった状態。
気力が尽きてしまった。忌避したくとも行動するエネルギーが残っていない。
どこまでいくと耐えられなくなってポキッといってしまうのだろう。
いやもうポキッといっているのだろうか。
"ポキッ"というより"メリッ"、"ミシッ"という感じか。
私らしいな〜w。
私のようなタイプは、簡単にポキッといったりしない。
根性なしに生んでくれた親に感謝。それを許してくれた周囲の環境に感謝。
そのお陰で、いざというときに逃げれる。ポキッといく前に回避できる。
そうか。わかった。今の無気力状態は、ポキッといくことを回避するために、
私の中でストライキが発生しているのだ。

(雑文)

娯楽 2

心が楽しみ、慰められている状態とはどういう状態か?

では、私はその慰めのために何をしているのだ?
本当にそれで心が慰められているのか?
逆に心を蝕んでいるだけではないのか?
快楽と苦痛の違いは何か?
どうして体をいじめて快楽を感じるのか?(例えば、激しい運動 等)
ストレスが少なすぎてもストレスになる。これはウソだ。
ストレスが少なすぎると脆くなり、生きる気力が失われるだけのこと。
それを"ストレス"と呼ぶのはおかしい。

では、それなら「"無痛"の"苦痛"」のようなものを、何と表現したらよい?
「閉塞感」?

「閉塞感」も確かに"苦痛"のひとつだなぁ。

何も楽しいことがない。楽しみを感じるほどに心に余裕がない。

いったい何回おなじことを繰り返せば気が済むのか?
気が済まない。
することがないので、仕方なくそれをし続けているだけのこと。

娯楽とは、"息をすること"。

息をしないのは、"苦痛"だから、面倒くさいけど仕方なしに息をしている。
人生とはそういうものか?
味気ないなぁ。

(雑文)